名前をつけてやる

3月に修了を控えた世の修士2回生はおよそ同じ境遇であることを信じたい。現在絶賛修士論文の執筆中である。論理的に文章を書くことに疲れた今、そのストレスを解消する一つの手段としてこのブログを利用することとする。



先日修士論文の審査願いを事務に提出するというイベントがあった。内容は修士の研究がまとまったから、ぜひとも審査をしてくれ、という内容のものである。その書類には修士論文の題目を記入する部分があり、そこに記入した題目が最終的な修士論文の題目となるために気合を入れて決める必要があった。一生に残る修士論文の題目である。

当然それは教授に一度見てもらわねばならない。当初僕はそれほど重要に考えていなかったために、今まで研究会などで利用していた題目に毛を生やした程度の題目と、もう一つちょっとだけ表現を変えた題目(どちらも個人的にはなかなか良い出来だった)を持って締め切りの前日に教授室のドアを叩いた。

その2つの案を見て、教授は「君の持ってきたこのふたつの題目は全く違う性質を持っていることはわかるね。一つは、そう、例えば子供に『みんなと仲良くして育って欲しい』と願って名付けるか、それとも『みんなと仲良くすることはさておき、とんがった生き方をして欲しい』と願って名付けるかと同じようなものだ。私はどっちがいいかは言わない。君の子供だから君に命名権がある。」と言った。正直どちらも今回の修士研究の内容を適格に表していると思っていたためなかなか決めかねる部分があった。その様子を見かねた教授は「わかった。ではまた明日の朝に聞こう。とりあえず一晩考えてみなさい。」と言ったので、一旦その場を後にしてもう一度考えることとなった。


「自分の子供」とはなかなか言いえて妙である。確かに十月十日とまでは言わないが、昨年の春に研究の種を脳内に身ごもってから、来月ようやく修士論文という形で産声を上げるのである。思えば提案手法が思いつかずに8月のあたりは親から「あんた顔怖いで」と言われるまでに悩んだこともあったが、なんとか出産まで漕ぎ着けれそうである。そういうことを考えながら、ではこうして生まれ来るであろう我が子にどういう名前をつけようか、と改めて思い返した時、やはりせっかくなので「とんがって」欲しいという思いがあったので、悩みに悩んだ結果後者のとんがった名前をつけることとなった。自分はとんがった生き方を避けているくせに子供にはつけようなんざ勝手である。


そして翌朝に再び同期の友人らと共に教授室を訪れ、その旨を伝えると教授は少々のコメントとともに納得してくれた。

その後も引き続き教授と世間話をしているときに、命名の話になった。自分の名前がどういう経緯でつけられたかという話である。僕の「康輔」は、父が熱狂的な徳川家康ファンであったためにどうしても「康」の字を使いたいという希望に、母が画数などを考えて「輔」という文字を添えてくれたことによる。もし僕が女に生まれていたら「康子」だったらしい。参考までに。
別に父は家康のように巨大な幕府を築いてくれなど、毛頭願っていないであろうが、なんとも大層な字を子供につけたものである。まぁ「輔」は元来助けるという補助的な意味を持つので、実際は家康の補助をする位置なのだろうか。


何れにしても、子の名前というのは親の願いが現れている、という傾向は大きい。僕がポケモンのアリゲイツにノブナガと名付けたのも、ドラクエモンスターズの主人公にトルシエと名付けたのも、ゆくゆくは天下の覇権を握って欲しい、世界を相手に戦って欲しいという願いの現れである。


まぁでも無事に題目も決まってよかったやれやれ、と思って教授室を出ようとした時、「ところで君たちは出産に立ち会ったことがあるかい?あれは尋常じゃないよ。やはり産みの苦しみというのかね。尋常じゃなかった。」と言ったので「へー、やっぱりそうなんですかー。」と適当な相槌を打っていたら、

「何を言ってるんだ。君たちもこれからその苦しみを味わうんだよ。修士論文という形でね。尋常じゃないよ?」


修論の締め切りまで後ちょうど3週間である。